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隅田地方の歴史を紹介しています GENDAI SUDA TAIHEIKI

安土桃山時代の地方local history

農民の台頭

  中小農民の経済的成長や組織的抵抗によって、隅田一族は在地領主としての力を失っていきます。天正18年(1590)の溜池築造に関する書状には、「隅田名乗中」に続いて「同地下人中」が書かれています。「地下人中」は中世後半に成長してきた中小農民の結合の姿であり、一族にとって隅田八幡宮の役割も微妙な変化を見せ始めます。村落ごとの堂座の成立が進み、在地領主の隅田一族にとって地域的な連合よりも村支配の重要性が増していくに伴い、隅田八幡宮の役割が徐々に低下していきます。永禄3年(1560)兵火によって隅田八幡宮が焼失しましたが、しばらく再建ができなかったことは一族の力が低下していったことが伺えます。

秀吉が紀伊国へ兵を送る

 織田信長が天下統一を目指して勢力を伸ばしていきますが、石山本願寺の没落後、紀州でも信長の攻撃をうけることになります。しかし、天正10年(1582)明智光秀は本能寺を襲撃して信長を自殺させ、二条御所を囲んで嫡男信多忠を討伐し鮮やかなクーデターを起こします。その時、光秀から高野山衆、根来衆、雑賀衆に出兵を依頼しています。こうしたことから豊臣秀吉も紀伊国を攻めて、根来寺や粉河寺を焼失させます。
 これまで反信長勢力となっていた隅田一族は、応其上人の働きによって高野山領が安堵されたため、秀吉に対する反勢力的な活動ができなくなり、検地と刀狩によって兵農分離が進み一族の力が更に低下していきました。しかし、豊臣政権による大陸出兵が開始されると紀伊国からも大量に増員され、「加藤清正に従って出兵して討ち死にした」と記した文書が残されていますが、紀伊領主に従って仕官して出兵をした方が理解できます。

参考文献 橋本市史