鎌倉から室町にかけての動乱の様子が「太平記」に書かれています。その中に鎌倉幕府に仕えた隅田一族のことが記されており、隅田一族の登場する部分の概略を記しました。
利生護国寺(和歌山県隅田町下兵庫)に祀られている隅田一族の墓
1.笠置軍事付陶山小見山夜討事
笠置山に後醍醐天皇が入り、近隣から軍勢が結集しているとの報が都にもたらされた。延暦寺が動いては面倒なので、大津に佐々木時信を送り込んだが兵不足というので久下、長澤一族ら八百余騎を配置した。
九月一日に六波羅探題の両検断の糟谷宗秋、隅田次郎左衛門は五百余騎を率いて宇治の平等院まで出向いた。兵の到着を待っていてところ、たちまち十万余騎が集まった。笠置開戦の前日、高橋又四郎が抜け駆けして手柄を独り占めしようとして、三百余騎を引き連れて笠置山に攻め入ったが、朝廷軍に攻められて戦わずして敗退し、木津川の水に飲まれて落命する者や馬も鎧も捨てて、裸の状態で白昼の都に逃げ帰ってきた。平等院の橋詰に「木津川の瀬々の岩浪早ければ 懸けて程なく落ちる高橋」の歌が掲げられた。
この高橋軍に負けじと小早河軍も抜け駆けをして軍を動かしていたが、その小早河軍も朝廷軍に一気に追い立てられ宇治まで退却した。早速、札がもう一本立てられ「懸けも得ぬ高橋落ちて 行く水に浮き名を流す小早河かな」と書かれていた。次の日に、七千五百余騎が笠置山を包囲し、進軍を開始したところ、何の抵抗もなく仁王堂まで進んだ時、いきなり錦の御旗が現れて足助重範らが矢を射る態勢で待ち構えており、荒尾九郎と弟の弥五郎が射られ、深き笠置山の谷も死者で埋まってしまうほどの惨状であった。
2.楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事
元弘2年、鎌倉幕府は楠木正成が赤坂城の落城の際に自殺したと信じ、楠氏の所領の跡に湯浅氏を地頭として任じました。ところが翌年四月三日、突然正成は五百余騎を率いて湯浅氏の城に攻めかかりました。楠木勢は、五月十七日には住吉、天王寺あたりに打って出ました。こうしたことが早馬で京都にもたらされ、今にも京都に攻めあがる状態であると報告され、京都は上を下への大騒ぎとなりました。
六波羅では軍兵を招集し防戦体制をとりましたが、楠木勢は聞いたのと違って小勢のようなので、こちらから攻めてかかることにし、隅田・高橋の両氏を六波羅の軍奉行として五千余騎が二十日に天王寺に向かいました。楠木勢は二千余騎を三手に分け、三百騎を橋のたもとに配置しました。これを見て隅田・高橋氏の率いる六波羅は、あまりにも小勢であるので川を一気に押し渡りました。
楠木勢は矢を射掛けるぐらいで天王子に退き、六波羅勢は勢いづいて追っかけました。ところが楠木勢は隠していた主力が二方から攻めかかり、不意打ちを受けた六波羅勢は我先にと逃げ出し、川におぼれて死ぬ者もあり、翌日京都六条河原にこのことを評して「渡辺の水いか計早ければ、高橋落ちて隅田流るらん」という落書きが掲げられ、隅田・高橋両氏は面目を失い、しばらくは六波羅に出仕することができなかった。
3.三月十二日合戦事
麻耶山に攻め入ったが赤松軍に敗れるとは六波羅も思っていなかった。3月12日淀、赤井、山崎、西岡の辺りから火の手が上がり、京都は大騒ぎになった。六波羅は京都中の武士に召集をかけたが、主力は赤松軍に追い立てられており、45000人馳せ参じたが士気が無く情けない状態であった。そこで京都郊外でに軍を繰り出すことにし、隅田、高橋の下に2万人を編成し、今在家、作道、西朱雀、西八条へ向かわせた。冬から春に変る時季で、雪どけの水により川は岸にあふれていた。
4.持明院殿行幸六波羅事
六波羅は、七条河原に陣を構え赤松軍を待ち構えた。この大軍を見てすぐには攻めてこずに走り回っては放火を繰り返している。六波羅は、隅田、高橋に三千騎を与え八条口に差し向けた。河野九郎左衛門尉と陶山二郎に二千余騎を添えて三十三間堂に向かわせた。河野九郎左衛門尉は、寄せ集めの兵をいたずらに動かすので無く、他家の兵は塩小路に向かわせ、河野の手の者三百余りと陶山の手の者百五十余りで三十三間堂に向かわせた。
赤松軍は八条河原に向けて軍を進めたとき、背後から河野・陶山の手の者四百余りが赤松軍に襲い掛かり、赤松軍の討たれたる者数知れず、敗走してしていった。朱雀大路の方では、隅田、高橋率いる三千余騎が赤松軍の高倉左衛門佐らに追いたてられた。 醍醐は、倒幕のために千種忠顕を頭として任命し、山陽・山陰地方の武士を率いて京都に進軍させた。伯耆の国を出たときはわずか一千余騎であったが、次々と加わって二十万七千余騎にもなっていた。但馬国守護大田三郎左衛門尉が来て、鎌倉幕府に捕らえられて流刑になっていた親王を連れて合流してきたので、千種忠顕は喜んでただちに錦の御旗を立てた。
六波羅軍は、千種軍の進軍に対して三条大宮から九条大宮にかけて塀を築き射手を配置した。後方に騎馬を配置した。両軍の凄まじい攻防が繰り広げられたが、京都の彼方此方に火が上がり、六波羅軍は大宮に退却した。しかし佐々木時信、隅田、高橋、南部、下山、河野、陶山、富樫、小早川らに五千余騎を率いさせ、二条通りに向かわせたのでこの軍に但馬国守護大田三郎左衛門尉が討ち死にした。