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隅田地方の歴史を紹介しています GENDAI SUDA TAIHEIKI

室町時代の地方local history

隅田一族の勢力

  撫子紋 鎌倉時代を生き残った庶子家は、一族間で協力し合って南北朝の内乱を乗り切り、応永7年(1400)畠山基国(はたけやまもとくに)が紀伊国守護職になってから隅田一族は家臣となり合戦に従っています。永正16年(1519)高野山衆徒と隅田一族が領地について争論になり、高野山衆徒は高野山領とした隅田南荘の下司である上田氏を追放し、三千余騎を率いて吉野川を越え、隅田の高橋まで攻め入りました。それに対して岩倉城より隅田蔵人葛原三郎兵衛、松岡右京進、樽井五郎左衛門尉が三百余騎で戦ったが討ち負けました。永正9年(1512)に利生護国寺で饗宴が開かれておりこの時300人が招かれていることから隅田一族の勢力は300人が増員できる勢力であったと考えられます。
 また永禄3年(1560)岩倉城が松永久秀の攻撃を受けています。永禄11年(1568)畠山昭高に属して河内の国の高屋城を攻め、敵将の十河久米助を討ち取り戦場の臨機の恩賞として、かざしていた矍麦(なでしこ)の花一枝を与えられました。これ以後、隅田一族の旗印として矍麦を用いることになり、今では家紋として使われています。
 隅田一族は、合議して物事を取り決めて進めています。その際、決議したことを記録して一族一人ひとりが署名した「評定書」を残しています。その評定書には、大野、亀岡、谷、小田(おだ)、松岡、高坊、すた新、塙阪、橋屋、森、葛原、竹内、西、今西、すた中、まんどころ中、南、尾崎、上田、山田、中島、中山、小西、池田、兵庫、芋生、垂井、辻、山内などの名前があります。

隅田一族の家名
葛原 上田 堺原 中嶋 渋草 山内 平野 芋生 垂井 山田 小西 池田 下山 西山 新 中 下 辻 竹内 岩蔵 土屋 小嶋 尾崎 野口 坂合部 今西 森 西 高坊 塙坂 亀岡 橋谷 寺山 兵庫 上村 近江 河瀬 走井 赤塚 中下 木原 真木野 寺地 河内 河原 樋口 中井 上西 谷 山田(北) 山中 上田(北) 下田 野辺 大野 小田 新野 南 華岡 白井 竜岡 松岡 名倉 嶋 井西 稲井 竹田 隅田 乾 角
参考文献 橋本市史