隅田町中下字血縄から弥生式土器が昭和25年に発見されており、隅田町垂井字榎塚の県道恋野山内線沿い田圃から竪穴式住居跡が発見されていることから、すでにこの地方に人々が住み始めたことを知ることができます。
また、この地方には垂井古墳、宮の壇古墳、隅田八幡塚古墳、血縄古墳、上兵庫古墳群、霜山古墳、鳥坪古墳が確認されており、紀の川北岸に古墳が点在していますが、河南には現在までのところ1基も見つかっていないことから、古代から北岸に集落が形成されていたことが伺えます。
また、女房ヶ坪、丁ノ坪の字名や八丁縄手と言う条里制の地名が現在も使われていることから班田収受がこの地でも行われていたことを知ることができます。当時の社会生活は、稲作を中心とした社会で、豊凶を左右するのは灌漑用水の安定的な確保が必要でありました。上流の山裾から流れ出る小川は岩石で狭くなったこの地を通って水田を潤したことから、明神社が建てられ稲の豊作を祈念したことでしょう。広辞苑によると「いわくら」は、「イハは堅固の意、神の鎮座する所。山中の大岩や崖。」と書かれており、この地方の人々が自然に産神として祀られてきたことでしょう。この岩倉明神社は、隅田町垂井字笹ヶ谷にある小さな社で、「岩倉明神」、「岩倉宮」、「岩倉大明神」などと呼ばれています。後に応其上人によって作られたといわれる「岩倉池」の名前もここから来たのでしょう。