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隅田地方の歴史を紹介しています GENDAI SUDA TAIHEIKI
現代隅田太平記
明治時代の地方
local history
小学校の開設
明治5年(1872)藩校、私塾、寺子屋などで行われていた教育が公立学校のもとに統一され、明治7年(1874)隅田地方では垂井小学校が最初に開設され、生徒(男64、女24人)を男性教員一人で始まった。というのも新築は村負担が大きく隅田八幡神社社務所を校舎に充てています。明治9年(1876)以降には、兵庫小学校(下兵庫村地蔵寺)、講明小学校(真土村)、霜草小学校(霜草村)、山内小学校(山内村宜燃庵)、平野小学校(平野村時光寺)、上田小学校(下上田村)、九度山小学校中道外舎(中道村観音寺)、琴淵小学校(恋野村)、長保小学校(彦谷村惣福寺)、須河小学校(須河村)、境原小学校(境原村)、細川小学校(細川上村)がこの地方に作られました。
隅田駅の開設
紀和鉄道株式会社(五条市)が設立され、奈良県五條から和歌山に至る鉄道の工事が始まり、明治31年(1898)隅田駅が開設されました。この鉄道網によって地方の輸送力は高まり、農産物が全国に流れるとともに通学による高学歴化が一段と進み近代化が進み始めました。
渡し舟
紀の川北岸の河岸段丘に開けた村は、平坦地のため薪炭が不足します。そのため紀の川南岸の山にその材料を求めることになり、運搬の手段として渡し舟を設けることになります。こうして「芋生村渡し」、「中下村渡し」、「下兵庫村渡し」、「河瀬村渡し」が誕生します。芋生村の渡しは、近隣の村も含めた経費負担をしており、三等道に指定されていたので後に県営移管することになります。昭和24年(1949)隅田中学校と恋野中学校が隅田中学校合併されたため、恋野区の生徒の通学の必要性から橋が架かるまで残され、昭和30年(1955)「恋野橋」が誕生すると廃止されました。一方、河瀬の渡しは対岸の下上田村と共同経営されており、和歌山から川で輸送されてくる物資を下上田村で引き揚げ、紀の川南岸の野原、吉野方面へ馬で輸送する中継地点でした。どの家庭でも薪炭から石油へ変わると次々と渡しが廃止されました。
煙草が特産品
小学生の頃、霜草(昔は渋草とも書かれている)に行くと煙草の乾燥蔵が残されていました。明治8年(1875)の各村の農産物を調べた記録が残っており、この地方は米、麦、菜種などを中心とした純農村地帯ですが、細川上村、境原村、中島村、霜草村、山内村、平野村で煙草が生産されています。外には市脇村、菖蒲谷村、橋谷村、細川下村で生産されており、この地方が煙草の産地であることから検品所が設けられ、後に日本専売公社橋本工場(たばこ産業)が橋本市に作られました。
赤塚村の予算
現在の橋本市赤塚が「赤塚村」と呼ばれた明治21年(1888)の予算は、収入の部が54円58銭3厘、支出の部が54円55銭6厘となっています。支出の内訳は以下の表のとおりです。
科目
金額
説明
村会議費
1円
書記給与、臨時賄い、筆紙墨代、炭茶代
土木費
2円
村内道路及び土橋修繕費
教育補助費
20円16銭9厘
中道尋常小学校前年度経費本村負担分
衛生費
50銭
流行病予防費
勧業費
1円
植物試験費、種子交換費
警備費
80銭
火災用蝋燭代、臨時雇夫賃料
村用係費
12円60銭
村用係年手当費、事務取扱費
負担金
16円48銭7厘
伊都郡連合村負担金、恋野連合村負担金
参考文献 橋本市史
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