起源は、『年中行事秘抄』によれば、中国からつたえられたので、この日に小豆粥を蚩尤もしくは高辛氏の女の怨霊に供し、これを食すればその祟りをのがれ、年中の邪気をはらうという伝説に由来すると言われ、神社や一族の本家などでも行われていましたが、今では神社の神事としてのこされています。
正月15日に隅田八幡神社で毎年、その年の稲作について占う神事が行われています。
神主は三日前から竹の筏を組んで準備し、まず二つに割った竹を三本置き、横に同じ長さの竹を二本置きます。横の竹は三本の竹をはさむように二つ割になっていて、六つの交叉した所を麻紐で縛ると筏ができます。14日の午後6時ごろから米1升、小豆五合を神前に供え祈祷します。その後、15日の早朝から釜の中に水を入れ、神前に供えた米と小豆を筏に吊るします。竹で筏を作っているので浮いてくるから重石を筏の上に載せ、無病息災を祈り豆殻で炊きます。
小竹管は12分くらいで引き上げると自然に3本の「小竹管」の中に米と小豆が入り、それを取り出し三宝に乗せて神殿に供えます。参拝者から見て、右手が早稲、真ん中が中稲、左が晩稲という順になり、参拝者はその小豆の入り具合や米の量をみてその年の豊作、不作を判断します。
左の写真は令和2年1月15日の結果で、「早稲」と「中稲」の竹筒の中には、両方とも沢山の米が入り、それぞれ少し小豆が混じっていたが、「晩稲」の竹筒には少しの米粒しかなかった。この「小豆粥占い」は、米が多いほど「豊作」、小豆が多いほど「不作」とされる。
隅田八幡神社の秋祭りは、室町時代の放生会が起源といわれています。県下でもっとも勇壮な祭りとして引き継がれ、隅田一族の出陣をも髣髴させるものです。
中世の武士団、隅田党の氏神であった隅田八幡神社で行われる秋祭りで、神社から御旅所までの勇壮な渡御がこの祭の特徴です。渡御の前駆けをなす屋躰(だんじり)は、およそ100人で担ぐ県下最大のもので、各地区が1基ずつ保持する13基の屋躰のうち、毎年4基が交代で参加します。豪華で迫力のある屋躰の動き、それを盛り上げる優雅で力強い太鼓と笛の囃子に特徴があり、紀ノ川流域ではもっとも勇壮な祭です。平成7年4月11日、和歌山県無形民俗文化財に指定されています。
屋躰(だんじり)の太鼓と笛の囃子については、基本は同じであったと思われますが村の伝承によって各地区が少しずつ変化したといわれています。
1.走り囃子(担いで運行する際の太鼓と笛の調子)
2.祇園囃子(休憩しているときの太鼓と笛の調子)
3.七つ返し・八つ返し(境内や別宮の休憩時に演じられる太鼓と笛の調子)
4.その他(村によって境内までの坂道運行や、境内だけの太鼓と笛の調子を演じる屋躰があります。
屋躰(だんじり)の当番は、次のとおりになっています。
1.山手 平野地区、山内地区、霜草地区、境原地区で4年に一度の当番になります。
2.宮本 垂井地区、芋生地区、中下地区で3年に一度の当番になります。
3.中筋 中島地区、兵庫地区、河瀬地区で3年に一度の当番になります。
4.河南 恋野地区、赤塚地区、中道地区で3年に一度の当番になります。(昔は上田地区にも屋躰あったが事故後なくなりました。)
隅田八幡神社の裏山に位置する小高い山が「丸高山」と呼ばれています。講員の皆様によって公園として環境が整備され、春には蕨取り、秋には栗拾いに大勢の方が登られてきます。山頂に東向きに稲荷神社が建立されており、毎年桜の咲くころに春祭りがおこなわれ盛大に餅まきが行われます。
昭和30年代になると機械化が急速に進み、昔からの稲作行事が衰退をしていきました。昔の農家は大変な作業量でした。この続きを読む。