宮座が最初に記録として残されているのが建長5年(1253)正月元旦の朝拝頭人差定で役割を定めた文書です。「 西座南 源三兵衛殿 西座北 仲四郎入道 東座南 西念房 東座北 清二殿」このように記されています。
宮座は、神事の遂行を目的とする恒常的な組織で、祭礼儀式の参列には家柄や年齢によって座席の位置が決められ、参加できるのは隅田庄内の有力者に限られていましたから席順で揉めた記録も残されています。村では、寺を中心とした「堂座講」が作られ、同様な席順が定められています。
隅田八幡宮において放生会が催され「御供頭」、「饗頭」、「田楽頭」、「相撲頭」、「御酒頭」、「楽頭」「四斗三百」の世話人を選び出しています。隅田庄内の村人たちが挙て宴や余興を催し隅田八幡宮の「まつりごと」が始まり、今も行われています隅田八幡神社秋季例大祭と呼ばれる神輿や屋台山車の秋まつりに引き継がれています。