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隅田地方の歴史を紹介しています GENDAI SUDA TAIHEIKI

鎌倉時代の地方local history

隅田八幡宮座

 宮座が最初に記録として残されているのが建長5年(1253)正月元旦の朝拝頭人差定で役割を定めた文書です。「 西座南 源三兵衛殿  西座北 仲四郎入道 東座南 西念房  東座北 清二殿」このように記されています。
宮座は、神事の遂行を目的とする恒常的な組織で、祭礼儀式の参列には家柄や年齢によって座席の位置が決められ、参加できるのは隅田庄内の有力者に限られていましたから席順で揉めた記録も残されています。村では、寺を中心とした「堂座講」が作られ、同様な席順が定められています。

まつりの始まり

 隅田八幡宮において放生会が催され「御供頭」、「饗頭」、「田楽頭」、「相撲頭」、「御酒頭」、「楽頭」「四斗三百」の世話人を選び出しています。隅田庄内の村人たちが挙て宴や余興を催し隅田八幡宮の「まつりごと」が始まり、今も行われています隅田八幡神社秋季例大祭と呼ばれる神輿や屋台山車の秋まつりに引き継がれています。

隅田一族について

撫子家紋  隅田八幡宮の祭祀集団の宮座から武士集団の形成が始まります。支配者を持たない合議集団として隅田一族が勢力を拡大していきます。 鎌倉時代半ばになると隅田一族を統率してきた長忠延の子孫の力が失われ、隅田別宮の祭祀権は宮座という祭祀特権的集団に移行していきます。宮座の構成員は、中(なか)、上瀬(かうせ)、上田(うえだ)、境原、垂井、森、橋屋、山田、兵庫、中島、芋生(いもう)、渋草(しもくさ)、山内(やまうち)など荘内の地名を姓としてもちいていますが、隅田何某(なにがし)と名乗るようになり、これまで隅田南荘(旧恋野村)としてきた領地は、後醍醐天皇の綸旨を受けた高野山領に組み入れら、官省府荘の塙坂(はねさか)、高坊(たかぼう)、亀岡(かめおか)、南などの政所一族が隅田荘に入ってきて隅田一族として活躍することになります。
 北条時政の孫に重時(極楽寺系)が生まれ、重時の四男一女の一人が業時(普恩寺系)です。北条業時は、NHK大河ドラマ「義経」に登場する源頼朝の妻となった北条政子の父です。北条普恩寺系は、業時、時兼、基時、仲時、友時と継がれて行きます。基時は北条十三代執権に就任しています。元弘元年(1331)北条高時が兵をあげて京都に攻め上がった時、隅田荘の地頭職であった隅田三郎左衛門尉は一族ととも楠木正成と戦火を交えました。醍醐天皇は、正中の変、元弘の変の二度の失敗に渡って倒幕を企てて失敗をしますが、元弘3年(1333)ついに鎌倉幕府の重要な出先機関である六波羅探題を陥落さ せました。北条仲時は、この戦いに敗れて鎌倉を目指して落ちていく途中、近江国(滋賀県)番場にて襲われ自刃しました。この地の蓮花寺には当時の過去帳が残されており、仲時とともに自害・討死した人々432人の名が記されています。この中に隅田一族の隅田左衛門尉時親、同弥五郎清親、同藤内左衛門尉八村、同与一真親、同五郎重親、同新左衛門尉信親近、同孫七国村、同又五郎能近、同藤三国近、同三郎祐近ら11人が含まれています。

隅田一族の城館について

 隅田一族評定書によれば二十九氏が数えられるそうですが、時代によってその数は変化しているようです。和歌山県中世城館詳細分布調査報告書によれば十四ヵ城となっています。主な城館は次のとおりです。

霜山城(隅田町中島)別名下山城、野口城
岩倉城(隅田町岩倉)
尾崎城(隅田町山内)別名山内土居屋敷
岡山城(隅田町上兵庫)別名平野城、尾崎城
松岡土居屋敷(隅田町下兵庫)別名下兵庫土居屋敷
高尾城
榊山城
上田土居屋敷
小島土居屋敷
恋野土居屋敷 別名中山土居屋敷
赤塚土居屋敷
竹田土居屋敷
芋生土居屋敷
参考文献 橋本市史  和歌山県城郭研究会資料