西暦 | 出来事 |
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816(弘仁7年) | 空海の高野山領が認められた |
889(寛平元年) | 粉河寺縁起に隅田荘があったことが書かれている |
986(寛和2年) | 藤原兼家が摂政になり、隅田荘の税が免除 |
1105(長治2年) | 長忠延が隅田八幡宮の俗別当職になる |
1111(天永2年) | 長忠延が隅田八幡宮の公文職に任じられる |
1161(応保元年) | 隅田八幡宮僧別当に空山上人が任じられ鎌倉から下向する |
1164(長寛2年) | 藤井氏が法華経を写して隅田八幡神社裏の経塚に埋める |
1253(建長5年) | 隅田八幡宮宮座の記録が始めて書かれている |
1285(弘安8年) | 利生護国寺に沙弥願心が田畑を寄進 |
1331(元弘元年) | 隅田次郎左衛門が一族を率いて楠木勢と戦火 |
1333(元弘3年) | 鎌倉幕府の六波羅戦奉行として隅田一族が出陣 |
1335(建武2年) | 隅田南荘が高野山領になり下司職に上田氏がなる |
1347(正平2年) | 楠木勢が隅田まで攻めてくる |
1393(応永元年) | 恋野村堂座講が記録されている |
1400(応永7年) | 紀伊守護職畠山の家臣となって隅田一族が出陣 |
1415(応永22年) | 隅田一族の評定書が書かれている |
1519(永正16年) | 高野山衆徒が隅田高橋まで攻めてくる |
1560(永禄3年) | 松永久秀が隅田まで攻めてきて隅田八幡宮が焼失 |
1568(永禄11年) | 畠山昭高に従って隅田一族が出陣 |
1576(天正4年) | 石山本願寺攻めに織田軍として隅田一族参戦 |
1587(天正5年) | 下兵庫利生護国寺御主殿300石 |
1590(天正18年) | 応其上人が岩倉池を築く |
1594(文禄3年) | 秀吉・家康など利生護国寺を宿泊所とし、高野山に参拝する |
1601(慶長6年) | 検地帳には「宮の壇村」と記載 |
1614(慶長19年) | 隅田八幡宮、氏人より米1升づつの寄進を受け社を再建する |
1615(元和元年) | 隅田組15家となる |
1645(正保2年) | 隅田組の家禄が召し上げられ、紀州藩地士になる |
1649(慶安2年) | 中道村が高野寺領になる |
1672(寛文12年) | 下上田村、中道村で新鍬詰池を築く 大高能寺が御室御所の末寺となる |
1673(寛文13年) | 切支丹改帳の垂井村に宮の壇のことも記載 |
1684(貞享元年) | 隅田八幡宮放生会で奈良の馬太夫を招き能を上演する |
1689(貞享3年) | 隅田八幡宮、御輿が再興する |
1693(元禄6年) | 隅田庄の隅田尖恵が271代高野山検校に就任する |
1700(元禄13年) | 隅田八幡宮、本地堂を隅田庄内の各村に銀百目を割り当てて再建する 山内村が安楽寺を再建する |
1707(宝永4年) | 南海道大地震 |
1726(享保11年) | 名迫治郎右衛門が恋野村糸掛け橋を再建する |
1727(享保12年) | 北宿村が名迫権現の落慶法要を営む 宿、富貴、筒香村が凶作のため餓死者が5年間で168人になる |
1750(寛延3年) | 隅田八幡宮御開帳、境内で芝居興行をする |
1759(宝暦9年) | 隅田八幡宮で雨乞い小踊りをする |
1761(宝暦11年) | 南紀徳川公坊死去により隅田八幡秋祭りを延期する |
1766(明和3年) | 中道村が観音寺建立する 赤塚村で雨乞い小踊りをする。秋祭りに山車渡御に参加する |
1773(安永2年) | 赤塚村で的打ち行事をする |
1789(天明9年) | 霜草村が弁財天社を勧請する |
1790(寛政2年) | 大高能寺が寺社奉行に直支配を願い出て許可される |
1800(寛政12年) | 隅田八幡宮秋祭りに紀伊藩主の代参が始まる |
1817(文化14年) | 平野村が山車をつくる |
1819(文政2年) | 中下村に寺子屋ができる |
1820(文政3年) | 隅田八幡宮が焼失する |
1825(文政5年) | 隅田八幡宮が再建される |
1831(天保2年9 | 大高能寺、本地堂を再建する。請負人河瀬村 喜兵次 |
1852(嘉永5年) | 恋野村が真砂新田を開発する |
1853(嘉永6年) | 中島村に寺子屋ができる |
1854(嘉永7年) | 赤塚村が金毘羅社を勧請する |
1855(安政2年) | 垂井村に寺子屋ができる |
1857(安政4年) | 岩倉池下で相撲、餅投げをする 隅田八幡宮の松の馬場修復作業が村に割り当てられ、砂持・我踊りが流行る |
1858(安政5年) | 祭礼で中道村と河瀬村の屋台が喧嘩になる |
1859(安政6年) | 天誅組の乱があり、恋野村で1軒放火される |
1865(元治2年) | 村人の苗字を名乗った常夜灯が作られる |
1868(慶応4年) | 太政官布告(通称「神仏分離令」)が出される |
1872(明治5年) | 従来の寺子屋を廃止 |
1873(明治6年) | 下兵庫村渡船を新調する |
1874(明治7年) | 垂井、芋生、真土、中島、中下、上兵庫村学が合併して村学を創設 |
1876(明治9年) | 村学を隅田小学校に改称する |
1888(明治16年) | 隅田八幡宮正遷宮 |
1884(明治17年) | 隅田小学校本校中島、分校河瀬、山内とする |
1888(明治21年) | 隅田村発足につき答申、下兵庫村一村独立願出される |
1889(明治22年) | 紀の川北岸の村々が合併し隅田村、河南は恋野村となる 真土村大字大尾の一部を畑田村に編入する達 |
1891(明治24年) | 下兵庫区が山車を新調する |
1892(明治25年) | 隅田村に条例によって四か年の任期の区長及び代理者が設けられた |
1897(明治30年) | 下兵庫村渡船営業願い |
1898(明治31年) | 紀和鉄道橋本駅・隅田駅開業する |
1902明治35年) | 芋生、恋野渡船営業の許可 |
1903(明治36年) | 森林保護のため門松が禁止される |
1904(明治37年) | 恋野村村会議員選挙に関する心得が出される |
1909(明治42年) | 隅田八幡宮第一次神社合祀が始まる |
1910(明治43年) | 隅田村在郷軍人会が創立される |
1911(明治44年) | 隅田村青年会が設立される |
1914(大正3年) | 隅田村婦人会が設立される |
1915(大正4年) | 紀見トンネルが完成 |
1916(大正5年) | 隅田八幡宮が県社となる |
1918(大正7年) | 隅田村隔離病舎が中島門前にできる |
1919(大正8年) | 隅田村戸主会が設立される |
1921(大正10年) | メートル法に統一された |
1924(大正13年) | 紀の川の芋生渡船が県営になる |
1925(大正14年) | 隅田村敬老会が設立される |
1929(昭和4年) | 恋野村尚式会が結成される 芋生区農時実行組合が設立される |
1930(昭和5年) | 恋野村去年川土木森林組合が結成される |
1954(昭和29年) | 恋野村と隅田村が合併して隅田村となる |
1955(昭和30年) | 隅田村、学文路村、岸上村、山田村、紀見村と橋本町が合併して橋本市になる |