本文へスキップ

隅田地方の歴史を紹介しています GENDAI SUDA TAIHEIKI

奈良時代の地方local history

奈良時代には「すみた」と呼ばれていました

 美しい紀ノ川の流れに沿った紀伊の国の北東端、東は万葉の古歌で名高い真土山を境として大和の国(奈良県)に、北は葛城峯を堺にして河内の国(大阪府)に接し、南は高野の霊峰を仰ぐという自然に恵まれた隅田地方。
 古来大和の国は日本の発祥の地とされ、この地は大和朝廷時代は畿内とされ首都圏の一部でありました。大和の国から紀伊の国への旅人は、必ずこの真土山を超えて西に旅をしました。この道は五畿七道という官道の一つで「南海道」と呼ばれました。大化三年(647)には有馬皇子が牟婁(熊野地方)行幸、翌年斉明天皇、皇太子も牟婁行幸がなされ、朱鳥五年(691)には持統天皇が紀伊に行幸され、大宝元年(701)には持統天皇、文武天皇が白浜に行幸され、天平元年(765)には称徳天皇が紀伊に行幸された際にはこの峠を越えていきました。こうしたことから歌が残されています。

 万葉集に残されている歌があります。歌の解説はあなた自身でお願いします。
朝毛吉 木人乏母亦打山 行来跡見良武 樹人友師母(あさもよし きひとともしもまつちやま ゆきくとみらむ きひとともしも」
亦打山 暮越行而盧前乃 角太河原爾 独可毛将宿(まつちやま ゆうごえゆきていおさきの すみたかわらで ひとりねるかも)」
白栲爾 丹保布信土山之山川爾 吾馬難 家戀良下(しろたえに にほふまつちやまのやまかわに わがうまなづむ いえこふらしも)」
朝裳吉 木方往君我 真土山 越濫今日曽 雨莫零根(あさもよし きへゆくきみが まつちやま こゆらむけふぞ あめなふりそむ)」
橡之 衣解洗 又打山 古人爾者 楢不如家利(つるばみの きぬときあらい まつちやま もとつひとには なほしかずけり)」
乞吾駒 早去欲亦打山 将待妹乎 去而速見牟(いでわがこま はやくゆきこそまつちやま まつらむいもを ゆきてはやみむ)」

新千載集
「誰にかもやとり越とはん待乳山 夕越行はあふ人もなし」
後撰集
「いつしかと 待乳の山の桜はな 待てどもよそにさくかかなしき」
拾遺集
「こぬ人をまつちの山乃時鳥 おなじ心に音こそながれる」
新古今集
「誰をかも待乳の山のおみなえし 秋と契れる人ぞあるらし」
「たのめすは 人をまつちの山なりと 祢なまし物をいさよいの月」
続古今集
「かく計待乳の山のほととぎす 心知らんでやよそに鳴らん」
「我せこをまつちの山の葛かづら たまさかにたにくるよしもかな」
新続古今集
「咲やらぬ花をまつちの山の端に 人のためなる春の白雲」

 万葉集にも出てくるように「角太(すみた)」が「隅田(すみた)」と呼ばれるようになり、現在は「隅田(すだ)」と呼ばれるようになりました。現在の「真土山」は、「待乳山」「亦打山」「信土山」「又打山」の字があてられています。

参考文献  橋本市史