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隅田地方の歴史を紹介しています GENDAI SUDA TAIHEIKI

江戸時代の地方local history

隅田一族が歴史から消える

  慶長5年(1600)関ヶ原の戦において西軍が敗退し、紀伊国領主は豊臣秀長、豊臣秀保、増田長盛と続いた豊臣在地勢力も一掃され浅井幸長が国主として紀伊国を治めました。元和5年(1615)徳川御三家として徳川頼宣が55万5千石を得て紀州藩主となりました。しかし、大阪の陣に九度山の真田幸村が活躍したように在地勢力の存在を無視できず、入国に先立ち旧臣や家康に従った勢力を家臣として取り立て、続いて隅田一族から十五家を抜擢し隅田組として各々30石を給与し、そのうち13人が町奉行彦坂光正の町方与力として用いられています。
 紀州藩は、正保元年(1644)に旧臣などの在地勢力であった六十家、続いて正保2年(1645)に隅田組の家禄が召し上げられ放りだされたのです。こうして荘園制度から続いていた隅田一族が歴史から姿を消すことになります。

五人組制度による支配

  農民は農耕や屋根ふき、家普請など相互に労働を提供しながら協力して日々の生活をしてきました。こうした農村社会の慣行を生かしながら、農民を支配するために巧みに利用した制度です。領主にとって貢租の納入や夫役のなど諸負担を滞ることなく行わせることであって、秩序を乱す行為に走ることを戒め、質素倹約を強調し、祭礼、仏事、婚礼などが派手にならないよう郡奉行・代官が説いたり、農民に読み聞かせたりしています。こうした内容を五人組の申し合わせ事項として定めさせ、背くものがあれば庄屋に申し出るように記しています。
 杉尾村では衣類には華美を避け、伊勢参りその他の立願を禁止し、客は親類も呼ばないようにする。仏事・葬送は質素にし、節句・端午の祝儀は断り、日々の耕作などは未明より晩まで働き、朝遅く起き途中帰宅しない。15歳以上の男子は夕稼ぎに藁縄を二把作り、毎月晦日に庄屋に届ける。1か所に集まって夜咄しを禁止し、4、5人寄り合っていれば庄屋に届けるよう細かく定めています。
 貢租は大畑才蔵の記録によると六公四民に配分すると述べていることから、収穫量の6分を納めることになっている。田畑・屋敷以外に検地帳には、紙木、桑、漆、茶なども米に換算されて納めることになっています。

燃料と肥料確保の山林

  農民にとって山林は、燃料としての薪柴を確保する以外に、家の建築及び農具などの用材や牛の飼料、今のように化学肥料のない時代は自給肥料として若草を刈り、田に施すための欠かせない場所でありました。名主層の百姓以外に村持ち山が生まれ、時には山焼きで争ったり、入会権で争うこともありました。
 また藩は建築や土木用材の確保のため、樹木の伐採や枝葉を刈り集めることを禁止する御留山に指定するところもありました。

紀州藩主の参勤交代で苦労する

  紀州藩主は和歌山から伊勢街道を通って江戸と往来したからその道筋の橋本地方は大変な苦労がありました。江戸に行くときや帰国するお触れが出されると、通行する道筋の橋や道路の破損個所を調査して大庄屋が郡奉行に報告し、藩主が橋本御殿に宿泊所を利用するとお供衆の宿泊所の確保、川船を利用するとなると川船集めをしなければなりませんでした。寛政7年(1795)の記録によると10日前から橋本御殿の掃除人足や諸具や食材の調達、接待や警備、不寝番などの警戒態勢も申しわたされ、お供衆の宿泊所になる家々は雨漏りなどの修理をして、馬が足りないときは河内、大和から馬を雇っています。和歌山まで川を下るときは217艘も必要とし、六郡より船を集めています。また夜に橋本を出発するときもあり、松明を灯し、川筋では篝火を燃やしています。
 江戸に参府する際に人足として江戸に行くことになった赤塚村の佐兵衛は、同村の人に所持する田地の耕作を依頼し、年貢や諸役を依頼し、帰国したときは田地を必ず戻してもらうことを記して庄屋に出しています。一方、同じ村の人が藩より調達銀を申しわたされて証文を受け取ったが、請求しても返してくれずそのままになっていると記しています。

秋祭りの藩主代参

 隅田八幡宮の秋祭には、藩主の命に従って代参が行われていました。寛政12年(1800)藩主名代として岡九郎左衛門が遣わされています。付人として伊賀2人、支配人1人、若当1人、鑓持1人、長柄持1人、草履取1人、御用箱1人、駕籠4人と記され、僧以下6人が8月14日に橋本町まで出迎え、翌15日に隅田八幡宮を参拝しています。朝の献立表が残されており、皿(和え物、蒟蒻白和え、茗荷和え、大根漬け、奈良漬)、汁(もろこ、白豆腐、生姜)、猪口(あちゃら、蓮根、揚げ麩、くり)、小平(焼き豆ふ、人参、葛生姜)、茶碗(揚げ豆腐、酒麩、雪豆腐、牛蒡、白砂糖、山芋おろし)、しゅんかん(慈姑、干瓢、梅干砂糖、けん)、御飯、酒肴が上席者に出され、料理人は芋生村 郡次、他19人がお世話をしています。

村の戸数(慶長年間)

村名 戸数 村名 戸数 村名 戸数 村名 戸数 村名 戸数
河瀬 44 下兵庫 78 上兵庫 15 上田 58 赤塚 30
須河 16 彦谷 25 谷奥深 27 只野 19 芋生 27
中下 25 中島 30 垂井 10 真土 21 平野 12
山内 74 霜草 28 杉尾 28 境原 26 細川(上下) 40
垂井村が少ないように思いますが、「宮の壇村」として寺社領が負担免除されており、この村には社僧六坊と四戸の屋敷があったことが記録されています。後に「宮の壇村」は、垂井村に併合されます。

常夜灯に苗字が刻まれている

 大和街道から隅田八幡宮にいたる参道を「松の馬場」と呼んでいます。この場所でかつては競馬や流鏑馬が催されました。参道と大和街道の接点に「随身門」が建立され周辺を通称「門前」と呼ばれています。この門の両側に元治2年(1865)中の坊、新の坊と下兵庫村の石屋安兵衛が発起人となって村人の浄財を集めて建てられ、それぞれの面に寄進者の名前が刻まれています。中道村は高野山領であり、谷奥深、只野、彦谷、須河村は川津明神の氏神であったためだろうか含まれていません。赤塚村、境原村、霜草村は、村で一括して寄進しています。注目なのが百姓が苗字の使用が認められるのは明治3年(1870)でありますから、それ以前に主要道路に面して建てられた常夜灯に苗字が刻まれていることは当時の村人の思いなのか、既に武士と同様に苗字が使われていたことだろうか。昭和28年(1953)に交通事情により隅田八幡神社の階段に移されています。

参考文献 橋本市史 隅田恋野歴史愛好会「隅田庄を中心とした歴史散」