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隅田地方の歴史を紹介しています GENDAI SUDA TAIHEIKI

平安時代の地方local history

隅田八幡別宮

隅田八幡神社 隅田荘は、古代「加美郷(かみごう)」と言われ、粉河寺縁起に寛平元年(889)のことを書いた中に隅田荘のことが初めて見えます。
 大高能寺の記録によれば、清和天皇の時代の貞観年間に建てられたとしています。京都・石清水(いわしみず)八幡宮三昧院の荘園として藤原兼家が寄進した領地が隅田荘園です。 隅田荘園は、延久4年(1072)太政官符によって成立した荘園で、藤原道長の父兼家が、京都の石清水八幡宮に外孫の一条天皇のお願いによって建立した三昧院の経費に充てる領地として寄進したのがはじまりです。
寄進の最初は29町歩(約287,603u)でした。その後寄進が増えて130町歩以上(約1,289,256u)となっています。荘園統治は宗教目的と荘民支配を中心とする政治的な考えから、京都石清水八幡宮の分霊を祀り隅田八幡別宮となりました。

隅田荘園

 荘園は、社寺や貴族階級の私有地ですが、寛和(かんわ)2年(986)には「開墾したできた荘園」であるとの理由で開発田の税が免除されたことが記されています。 荘園の範囲は、平安末期には旧隅田村、恋野村、境原・杉尾(紀見村の一部)と隣接する奈良県五條市の一部(木原町、畑田町)が荘域となっています。隅田別宮の俗別当職と隅田荘公文職は、長忠延が拝命し子孫に代々受け継がれ、荘園内の地位を一層強固なものとしていきました。 忠延の子の忠村(ただむら)は藤原姓をもちいるようになり、能村(よしむら)は阿波国(徳島県)萱島(かやしま)荘の下司職(げししき)に任じられ、子孫が隅田荘園の外へも勢力が及んでいきました。境原の葛原(くずはら)が子孫と言われています。

隅田党の始祖 長忠延について

 国立歴史民俗博物館研究報告によれば、平安・鎌倉期の紀ノ川流域での在地有力者、土豪の分布をみると、伊都郡と西隣の那賀郡は圧倒的に坂上氏が多く、さらに西方の地域には那賀郡の郡名を負い、もと長国造の後身と考えられる長または長賀氏が同様にあつい分布を示していことから、長忠延はいうまでもなく、この長・長賀一族の出身であろうとしています。
 隅田八幡別当に起用したところに石清水八幡宮の政策的意図があったこと。忠延の子の忠村が藤原姓を称していることは、藤原姓の有力貴族との間に何らかの従属関係を結んだためであろうとしています。隅田党の始祖が当地古来の在地豪族でなく、石清水八幡宮との関係から隣接の郡から起用、移植された人物であるとしています。

参考文献 橋本市史 隅田恋野歴史愛好会「隅田庄を中心とした歴史散歩」 国立歴史民速博物館研究報告書第69集